2008年01月08日
本田多聞って方をご存知ですか?
偉大な文人のようですが…、
本田 多聞(ほんだ たもん、1963年8月15日 - )は、プロレスリング・ノア所属のプロレスラーで元レスリング選手、元陸上自衛官。神奈川県横浜市出身。プロレスでの愛称は「燃える赤鬼」、「原人」、「五輪の星」。
中学時代から自衛隊の練習に参加するなど、早くからレスリングの素質を見出され、日本大学在学時にレスリング・フリースタイル100kg級でオリンピックで入賞し(大学の同窓に小林孝至がいる)、自衛隊へ。3度のオリンピック出場や全日本選手権8度優勝など日本プロレス史上、最高のレスリング実績を持つ。その技術力の高さから「アマレスの神様」と言われ、レスリング界では知らない人はいない。
1993年全日本プロレス入団、同年10月8日、大分県立荷揚町体育館大会でデビュー(相手はテッド・デビアス)。プロレス転向後「プロレスの技術を習得するために」とレスリングの技術を封印する。本田曰く、「同じラケットを使う競技でも、テニスとバトミントンみたいに違う」ものだと言う。しかし、稀にその技術を開陳し、U系レスラーをレスリング技術で叩きのめしたことも。デビューした当時の新入団選手紹介の時はスポーツ刈りだったが、現在は長髪を後でくくるヘアスタイルがトレードマークである。
井上雅央とコンビを組み、タッグで活躍する。当時のノアでの中堅名タッグである。 GHCタッグ挑戦でその時のチャンピオン、秋山準・斎藤彰俊組に挑んだが惜しくも敗れ、それをきっかけに長年組んできたタッグを解散する。
度重なる故障で膝の皿が無く、従って膝に爆弾を抱えていることから満足な練習も出来ないが、「残りのレスラー人生をシングルにかける」と宣言し、当時のGHCシングルチャンピオン小橋建太に挑戦を表明する。この頃からレスリングの技術の封印を解き、回転地獄五輪シリーズを開発する。何度かの査定試合、挑戦者決定戦の末、挑戦権を得る。
結果として敗れはしたが、小橋に熱い気持ちが伝わり、その後、小橋とタッグを組み、GHCタッグを取るなどの活躍をする。リングイン・アウトの時、お互いにロープを開け合うなど信頼・絆の深さを見せる。2007年12月の小橋の復帰戦で解説をつとめた際には、試合中にもかかわらず涙を流した。
プロレス界の同期は志賀賢太郎。年齢は一回りほど違い、リング上では志賀にGHCタッグの挑戦権争いに負けた際、「今日ほどプロレスをやめたいと思ったことはない」と言うほどのライバルであるが、お互いの信頼は非常に強い。これは志賀が欠場中、親身になって見舞っていたことで「兄者(あにじゃ)」と慕われたことや、2005年には、志賀の復帰戦の対戦相手を務めたことで分かる。「復帰試合は本田さんにやってもらいたい」と志賀が直訴したほど。本田自身も「志賀が帰ってきてくれたことが我が事の様に嬉しい」とコメントしている。また、志賀のオリジナルホールド「志賀絞め」は本田と志賀の共同開発で、本田も使用することがある。
現在は若手選手のコーチ役でもあり、小川良成と二人で、日々道場にて若手の育成に励んでいる。日本テレビのスポーツニュースで育成場面が放送されたが、高いテイクダウン力とグランド力をみせていた。
(以上、ウィキペディアより引用)
プロレスラーでした。。
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